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それまで空襲のなかった大刀洗の空に米軍機が襲来したのは、終戦の年となる昭和20年(1945)3月27日のことでした。人々が初めて見るB-29の大編隊から、1000発近い爆弾が投下されました。6波にわたる攻撃で飛行場は壊滅的な打撃を受け、飛行場とその周辺で、多くの人々の命が失われました。町の人々にも多くの犠牲者が出ましたが、その中には集団下校途中の立石国民学校の幼い児童たちも含まれていました。
大刀洗飛行場と特攻隊との関係はあまりよく知られていません。大刀洗陸軍飛行学校は本校と呼ばれ、後に特攻隊員となった多くの飛行兵が教育を受けました。特攻隊の基地として有名な鹿児島県の知覧は、大刀洗陸軍飛行学校の分教所のひとつでした。大刀洗飛行場から直接出撃をした特攻隊もありました。その隊員の方の貴重な体験談を視聴することが出来ます。なお展示機の九七式戦闘機は、陸軍では最も多く特攻に使用された機種です。
旧大刀洗平和記念館と筑前町に託された数多くの遺書や手紙は、戦争という歴史の事実を後世に伝える貴重な資料です。 今日の我が国の平和と繁栄は、命をかけて国を守ろうとした人々の尊い犠牲の上にあることを忘れないためにも、戦場に向かう兵士たちが死を覚悟しながら遺した言葉に触れ、その方々の心情に想いを馳せてみてください。